子どもが喧嘩をしたら、先生が止める。
低学年の子が困っていたら、大人が助ける。
学校とは、そういう場所だと思っていた。
でも、アメージングカレッジでは少し違う光景がある。
低学年の子どもたちが喧嘩をすると、高学年の子どもが間に入る。
「こういうことを思ってるんだって。君はどう思う?」
お互いの言葉を聞き、通訳するように関係をつなぐ。
町山辰也氏は、
「もう喧嘩は全部、高学年が入って解決してくれます」
と話す。
教える人と教わる人は、いつも同じでなくていい。
子どもが、子どもを支える
低学年の子どもは、自分の気持ちをうまく言葉にできないことがある。
さっきまで一緒に遊んでいたのに、突然喧嘩になる。
大人から見れば、
「何が起きたの?」
と思う。
そんなとき、少し年上の子が間に入る。
どちらかを叱るのではない。
気持ちを聞く。
相手に伝える。
もう一人にも聞く。
先生に言われてやっているわけではなく、学校の日常の中で、そうした関係が生まれてきた。
高学年の子どもも、最初からできたわけではない。
自分自身が誰かに助けられた。
喧嘩した。
失敗した。
話を聞いてもらった。
そうした経験があるから、今度は自分が小さい子の間に入る。
支えられた経験が、誰かを支える力に変わっていく。
先生にも、いろいろな人がいる
アメージングカレッジに関わる大人たちの経歴も一つではない。
教育の現場を長く経験してきた人。
教員免許を持つ人。
さまざまな経験を持ちながら、子どもたちと関わる人。
さらに、大学との連携も行われている。
教育を学ぶ大学生たちが、アメージングカレッジの子どもたちを前に実践する機会もつくられているという。
大学生が子どもに教える。
同時に、大学生も子どもから学ぶ。
アメージングカレッジ側の大人が大学で話す。
既存の教育に携わる人が学校を見学に来る。
学びが、一方向ではない。
教育の専門家だけでは見えないもの
もちろん、教育には専門性が必要だ。
子どもの発達を知る。
学習について知る。
支援について知る。
専門家だからこそできることがある。
でも、それだけが子どもに必要なものでもない。
料理をする人。
ものをつくる人。
会社を経営する人。
絵を描く人。
映像をつくる人。
何かに失敗したことがある人。
自分とは違う人生を歩いてきた人。
そんな人との出会いから学ぶこともある。
教育を学校の中だけに閉じると、子どもが出会える世界まで小さくなってしまう。
社会には、先生という肩書きを持たない「先生」がたくさんいる。
私たちの経験も、誰かの教材になる
「教育に関わる」と聞くと、少し構えてしまう。
教員免許がない。
子どもへの接し方が分からない。
何か特別なことを教えられるわけでもない。
でも、本当に必要なのは、授業をすることだけだろうか。
仕事の話をする。
一緒に料理をする。
自分の失敗について話す。
何かをつくるところを見せる。
子どもの話を聞く。
自分が持っているものの一部を渡す。
それだけでも、一人の子どもが知らなかった世界との接点になることがある。
OSUSOが大切にする「おすそわけ」は、こうしたところにもつながる。
お金だけではない。
経験も、仕事も、失敗も、その人が歩いてきた人生そのものも、誰かへ渡せるものになる。
誰かに教わり、誰かに渡す
低学年の喧嘩に、高学年の子が入る。
大学生が子どもたちの前に立つ。
学校の大人が大学へ行く。
社会で働く人が学校にやってくる。
誰が先生で、
誰が生徒なのか。
境界は少しずつ曖昧になっていく。
でも、もしかすると、それが社会の本来の姿なのかもしれない。
私たちは大人になっても、誰かから学ぶ。
そして、自分では大したことではないと思っている経験が、別の誰かには役に立つ。
人は、教わる側から、いつの間にか渡す側になる。
そしてまた、別の場所では教わる側になる。
教育とは、誰かが誰かを一方的に育てることではなく、
そうやって互いの持っているものを渡し合うことなのかもしれない。
先生じゃなくても、誰かの先生になれる。
アメージングカレッジにある日常は、「教育は誰のものなのか」という問いを、学校の外にいる私たちにも投げかけている。
