「僕が作るよ」
その言葉が出たのは、学校が順調だったときではない。むしろ反対だった。
資金は厳しくなり、人件費を削らざるを得なくなった。給食をつくる人も、いなくなっていった。このままでは、学校そのものを閉めることになるかもしれない。
そんな状況のなか、一人の子どもが言った。「僕が作るよ」。給食を、自分がつくる。
アメージングカレッジは、もともと「子どもがつくる学校」を掲げて始まった。しかし町山辰也氏にとって、その言葉が本当の意味を持ち始めたのは、学校がなくなるかもしれない、そのときだった。
「子どもがつくる学校」という理想
町山氏は、もともと子どもたちと無人島キャンプへ出かけたり、日本各地に秘密基地のような場所をつくったりする活動をしていた。
そんななか、使われなくなった結婚式場を別の場所に変えられないかという話が届く。同じ頃、学校づくりの構想もあった。二つが重なり、アメージングカレッジは始まった。
目指したのは、大人がすべてを決める学校ではない。遊びのなかから学ぶ。子ども自身が考える。自分たちで学校をつくる。町山氏自身も、そこからどんな教育が生まれるのか期待していたという。
しかし、理想通りには進まなかった。
学校が、なくなるかもしれない
学校を続けるには、お金が必要になる。運営と教育。理想と現実。その間には少しずつギャップが生まれていった。町山氏自身も、「全然教育に使われてないじゃん」と疑問を持つようになったという。
最終的に、それまでの運営体制を解き、町山氏と校長を中心に学校を立て直すことになった。しかし、残された状況は厳しかった。
町山氏は保護者会を開き、状況を伝えた。このままでは、来年の3月には学校を閉めることになるかもしれない。それでも続けたいのか。続けるなら、子どもたちや保護者の力も必要になる。
人件費を削るなか、給食をつくる人もいなくなった。そこで子どもから出たのが、「僕が作るよ」という言葉だった。
町山氏は、その瞬間を、初めて本当の意味で「子どもたちがつくる学校」に変わった瞬間だったと振り返る。
当たり前ではなくなったとき
それまで学校は、「あるもの」だった。朝になれば開いている。大人が運営している。食事も用意される。子どもは、そこへ通う。
でも、「なくなるかもしれない」と知った。当たり前だったものが、当たり前ではなくなった。そこで初めて、「じゃあ、自分は何ができるだろう」という問いが生まれた。
主体性は、「自由にしていい」と言われるだけでは生まれない。自分の行動によって、目の前のものが変わる。そんな実感が、人を当事者にすることがある。
学校を「通う場所」から、「自分たちでつくる場所」へ。危機は、学校が掲げていた言葉の意味を変えていった。
自由だけでも、足りなかった
もう一つ、町山氏が気づいたことがある。開校当初、子どもたちに自由を渡せば、主体的な学びが始まると考えていた。
しかし、長く家から出ていなかった子どもに、「何をしてもいいよ」と言っても、何をしたらいいか分からない。経験がない状態では、選ぶことそのものが難しい。
そこで町山氏は、「年間100個ぐらい、三日坊主をやらせたい」と考えるようになった。いろいろなことを試す。違ったらやめる。また次をやる。
そうして経験を増やすことで初めて、「私はこれが好き」「これをやりたい」という意思が生まれていく。
自分で決める力は、自分で決めた経験から育っていく。
学校とは、誰のものだろう
学校と聞くと、先生が教え、子どもが学ぶ場所を想像する。でも、アメージングカレッジで起きたことを見ると、別の姿も見えてくる。
子どもも、大人も、保護者も関わる。それぞれが持っているものを持ち寄り、学校をつくる。誰かの経験や仕事、知識を、次の世代へ少し渡していく。
そこには、OSUSOが大切にする「おすそわけ」と重なるものがある。学校を、学校関係者だけでつくらない。教育を、社会に開いていく。
「僕が作るよ」と言える場所
学校がなくなるかもしれない。その危機のなかで、一人の子どもが言った。「僕が作るよ」。たった一言だ。
でも、そこには、「誰かがやってくれる」から、「自分もここをつくる一人だ」への変化がある。
これは、学校だけの話だろうか。会社も、地域も、家庭も、社会も。私たちはつい、誰かがつくってくれている場所として見てしまう。でも、自分もその場所をつくっている一人なのだとしたら。
「ここは、自分もつくっている場所だ」と思えたとき、人は当事者になる。
「僕が作るよ」。その言葉から始まったものは、給食だけではなかった。アメージングカレッジという学校そのものが、その瞬間から少しずつ、「子どもたちの学校」になっていった。
