スーパーに足を運べば、国産の野菜が並び、精肉売場には国産牛や国産豚が並ぶ。お米も、私たちの食卓を支える身近な国産農産物だ。
それなのに、日本の食料自給率はわずか37%だという。
実は、この数字はカロリーベースで計算されたもの。2025年度の食料自給率を生産額ベースで見ると66%。ずいぶん印象が違う。
野菜や果物などは、経済的価値が高くてもカロリーが少ない。一方、小麦や油脂原料、家畜の飼料となる穀物などは、海外からの輸入に大きく依存している。つまり、国内で生み出す食料の経済的価値と、国内で賄える食料のエネルギー量は、必ずしも一致しない。
では、もし海外から食料が届かなくなったら、日本人は食べていけなくなるのだろうか。
必ずしも、そうとは限らない。
農林水産省は、国内の農地を最大限活用し、作付けを変更した場合に、どれだけの食料を生産できるかを試算している。例えば、米や小麦中心の生産から、単位面積当たりのカロリー生産性が高い、いも類を中心とした生産へ切り替えるという想定だ。
もちろん、実際には農地の条件や肥料、燃料、労働力などの制約がある。それでも、私たちが食生活を変えれば、国内で賄える食料を増やす余地はある。
しかし、、、
美味しいお米をあきらめて、毎日の主食をさつまいもに変える。
果たして、その暮らしを望むだろうか。
炊きたての白いご飯に、味噌汁と焼き魚。季節の野菜を添えた、何でもない日常の食卓。
それは単にカロリーを摂取する行為ではなく、日本の風土と農業が長い時間をかけて育んできた、私たちの文化である。
食料安全保障とは、最低限のカロリーさえ確保できればよいという話ではない。
この豊かな食生活を、私たちはこれからも維持していけるのだろうか。
国産のお米も、海外からの資源でつくられている
見落とされがちな問題がある。
国内で収穫されたお米は、当然ながら国産として扱われる。しかし、その生産過程では、海外との複雑なつながりが見えてくる。
田植えや稲刈りには農業機械が使われ、収穫したお米の乾燥や運搬にもエネルギーが必要だ。そして、安定した収量を確保するためには肥料が欠かせない。もちろん有機や特別栽培、自然栽培といった手間のかかる方法で依存度を減らしている農家も多い。
日本は肥料原料の多くを輸入に依存している。特にリンやカリウムは、国内での供給基盤が限られ、海外の鉱物資源に大きく頼っている。
仮に貿易が途絶えたとしても、翌日からお米が育たなくなるわけではない。土壌に蓄積された養分や堆肥などの国内資源を活用することもできる。しかし、現在の生産量や品質を安定して維持できるかは、別の問題だ。
国産であることと、国内の資源だけで生産を継続できることは、同じではない。
食料自給率37%という数字にも、この複雑性がすべて反映されているわけではない。
食料を輸入できるかどうかだけでなく、食料生産のための資源を確保できるかどうか。そこに日本の食料安全保障の姿がある。
農業を支える人が、いなくなる
もう一つの大きな問題が、農業を担う人の減少だ。
農林水産省の2025年農林業センサスによれば、個人経営体の基幹的農業従事者は約102万人。2000年の約240万人から、四半世紀で半数以下に減少した。平均年齢は67.6歳。70歳以上が全体の過半数を占める。
高齢の農家が長年の経験と技術によって地域の農業を支えている一方、その営みを次の世代へ引き継ぐことが難しくなっている。
もちろん、若者が農業に関心を持っていないわけではない。
新たに農業を始めようとすれば、農地の確保、農業機械や設備への投資、栽培技術の習得、販路の開拓など、多くの課題に直面する。収穫まで時間がかかり、天候によって収入が左右される。
農地法は、農地の無秩序な転用を防ぎ、農業利用を守る重要な役割を担っている。一方で、農地の権利取得や利用調整には一定の手続きが必要で、地域によっては農地が細分化され、効率的な集約も容易ではない。
制度だけが新規就農を妨げているわけではない。むしろ、土地、資金、技術、所得、地域との関係が複雑に絡み合い、新しい担い手が参入し、定着することを難しくしている。
農業を魅力的な仕事にするには、個人の努力や情熱だけでは解決できない構造的な課題があるのだ。
田んぼがなくなると、何がなくなるのか
担い手が減れば、耕作されなくなる農地も増える。
田んぼが失われることは、単にお米をつくる場所がなくなることではない。
水田は雨水を蓄え、洪水を緩和し、地下水の涵養にも寄与する。水路や畦には多様な生き物が暮らし、季節ごとに変わる田園風景は、地域の文化や人々の記憶を形づくってきた。
農業には、食料を生産する以外にも、こうした多面的な機能がある。
もっとも、田んぼが存在するだけで、これらの機能が十分に発揮されるわけではない。畦の草刈り、水路の清掃、ため池の管理など、日々の手入れがあってこそ維持されるものも多い。
では、それは誰が負担するのか。
お米を販売することで得られる収入には、洪水を防ぐ価値や生物多様性を守る価値が、そのまま上乗せされているわけではない。
恩恵を受けるのは地域社会全体でありながら、維持管理の負担は農家や地域の限られた人々に集中している。
ここに、農業が抱えるもう一つの構造的な問題がある。
農業を、農家だけの問題にしない
私たちは、美味しいお米を食べ続けたい。季節の野菜を楽しみ、地域の風景や自然も守っていきたい。
しかし、その価値を維持するために必要な負担を、農家だけに背負わせてはいないだろうか。
農業政策では、農地の集約や大規模化、スマート農業の導入など、生産性を高める取り組みが進められている。これらは、限られた担い手で農業を維持していくために欠かせない。
一方で、生産効率だけでは測れない農業の価値がある。
山間部の小さな田んぼや、地域住民が共同で維持してきた農地。経済合理性だけで判断すれば、維持することが難しい場所も少なくない。
だからこそ、行政による支援と農業経営の自立に加えて、農業の恩恵を受ける人々が、その維持に参加する仕組みが必要なのではないか。
都市生活者が農作業を体験する。企業が地域の農業活動を支援する。子どもたちが田植えや稲刈りを通じて、食べ物が生まれる過程を知る。
それらは単なる余暇活動や社会貢献にとどまらない。
農業を、農家だけが担う産業から、社会全体で支える公共的な営みへと捉え直す試みでもある。
田んぼを囲む、新しいつながり
OSUSOが連携する「田んぼクラブ」も、そうした可能性を感じさせる取り組みの一つだ。
私自身、稲刈りの機会に参加したことがある。
当日はあいにくの大雨だったが、田んぼに入り、収穫を体験し、新米を味わう時間は、普段の生活では得られないものだ。
印象的だったのは、日本のこれからの農業を支えようとする若い農業家との出会いだった。
都市で暮らしていると、食べ物は店頭で購入するものになりがちだ。しかし、その先には土地があり、水があり、季節があり、手を動かす人がいる。
その当たり前のことを、体験を通じて実感する。
もちろん、田植えや稲刈りを年に数回体験するだけで、農業の経営課題が解決するわけではない。大切なのは、そこで生まれた関係を一過性のものに終わらせず、農家の収入や地域の活動を継続的に支える仕組みへと育てていくことだ。
継続的な購入、農作業への参加、企業による協賛、地域の子どもたちへの教育機会の提供など、関わり方はいくつも考えられる。
農業に携わる人を増やすことは、必ずしも農家になる人を増やすことだけではない。
農業を支える人を、社会の中に増やしていくこと。
そこに、新しい公共の可能性がある。
美味しいお米を、これからも食べ続けるために
食料自給率37%という数字は、日本の農業が抱える課題を考える一つの入口にすぎない。
食生活を変えれば、国内で賄えるカロリーを増やす余地はある。輸入先の多様化や備蓄も、食料安全保障には欠かせない。
しかし、どれほど制度や技術が進歩しても、農地を耕し、地域を支える人がいなければ、国内で食料をつくり続けることはできない。
私たちが守るべきなのは、単なる食料の生産量ではなく、食料をつくり続けられる社会の仕組みなのだと思う。
そして、その仕組みは、農家だけの努力によって成立するものではない。
美味しいお米や野菜を食べ続けたい。
そんな身近な願いから、農業との関わり方を少し変えてみる。
田んぼを囲む小さなつながりが、やがて地域を支え、社会を変える力になるかもしれない。
農業を、農家だけの問題にしない。
その一歩を、私たち自身の暮らしから始めてみたい。
